土地と人のご縁から見つけた暮らし。自分も野菜も自然体で

無肥料・無農薬 野菜農家

山浦 泰

1991年、長野県塩尻市出身。幼少期に東京都練馬区へ移住し、東日本大震災を機に家族で塩尻市にUターン。縁あって2017年に辰野町の地域おこし協力隊に就任。在任中に「ゆがふ農園」として農業経営をはじめる。

取材・文:矢田 写真:山浦さん提供

農薬や肥料を使わない農家、山浦さん。辰野町の里山エリア川島区で家族4人暮らし。農業をはじめて約6年。既存の農法にとらわれず、自然の摂理にそって野菜を栽培してきた結果、いまのかたちになったという。

なにやってるの?

自分も野菜も自然体の農業

少量多品種の野菜を栽培し、地元スーパーや商店、個人に野菜セットの販売をしている。主なお客さんは知り合いや、兄の祐貴さんが営む辰野町のカフェ、「農民家ふぇあずかぼ」で山浦さんの野菜を食べ、ファンになった人など、顔の見える関係が多い。山浦さんの野菜作りへの想いに共感して、ただの生産者と消費者ではない信頼関係が生まれている。

多くの農業とは異なり、肥料や農薬を使わず自然本来の力で野菜を育てるため、形が少しいびつだったり、葉が虫に食べられていたりもする。個人へのお届けも決まった野菜ではなく、そのとき採れた旬の野菜を10種類ほどセットにする。自然と野菜のリズムを大事にする農業に共感してくれたお客さんを大事にして、日々、自然と対話しながら野菜作りに励んでいる。

なぜ辰野?

「やってみたい」からつながった

辰野町に隣接する塩尻市に住んでいた山浦さん一家。毎年6月に辰野町で開催されるホタル祭りに、兄の祐貴さんが出店したことから、辰野町とのご縁がはじまる。

辰野町の公務員、野澤さんに出会い、祐貴さんが店舗でカフェをやりたいことを相談したところ、空き家バンクの古民家物件を紹介してもらい、そこでカフェを開くことに。辰野町も協力し、古民家DIYイベントを開催。そこに手伝いに来ていた山浦さんが、「畑をやりたいと思っているんだよね」と、話したところ、ちょうど辰野町で農業に関する地域おこし協力隊を募集していることを教えてもらい、すぐに応募した。

流れるように辰野町の地域おこし協力隊になり、農業をはじめることになった。

どうやってはじめたの?

しっくりきた農業という生業

塩尻市に戻り1年が経ったころ、知り合ったおじいちゃんがたまたま農地を貸してくれて畑をやりはじめたのが農業との出会い。父と有機農業の勉強会に1年間通い、実践しながら学び始めた。身体を動かすのが元から好きだったのと、ものづくりも好きで、作った野菜で家族が喜ぶのが嬉しかった。それを生業にできたら良いと思うようになり、農家を志すようになった。

人とのご縁で耕した土壌

辰野町で地域おこし協力隊として活動をはじめると、次第に地域の方から農地を貸したいという声がかかるようになった。また、農地を貸してくれたおじいちゃんから、中古の農機具屋さんも紹介してもらった。状態が良い農機具を格安で販売するお店に出会い、地域おこし協力隊の起業支援補助金や農業次世代人材投資資金を利用しながら、少しずつ買いそろえていった。実家の隣のおじいちゃんが「田んぼ辞めるからやるわ」と田植え機を譲ってくれることもあった。最初は農地も農機具もなかったが、地域で活動していく中で、少しずつ農業ができる土壌ができた。

こだわらないことに、こだわりながら

最初から特に農法にこだわりはなかったが、肥料の匂いがどうしても好きになれなかった。「農家をやるならこの匂いに慣れなきゃダメだよ」と言われたが、使わずに育ててみたところ野菜は育った。そこから無肥料、無農薬栽培の本を読んだり、セミナーに参加するようになり、様々な農法を学ぶことで自分のやりたい農業の方向性が見えてくるようになった。

野菜の種は、信頼できる園芸店から固定種か原種を購入し、できるだけ長野県の在来種を選んでいる。その理由も野菜の適材適所を考えたものだった。肥料を使わないため、野菜自身が自分の力で育つ必要があったのと、その土地で育った野菜から採れた種を使いたかったから。「野菜にあった環境づくりをして、のびのび育ってほしい」野菜への想いは子育てのようだった。

使う資材に関しても、最初はビニール製のマルチだと土に残ってしまうため、藁でマルチをしていたが、手間も時間もかかり、失敗することもあった。そんな時に農家を支援する普及指導員さんから「今いるお客さんのことをまず第一にやってください」とのアドバイスをもらった。

「今、自分に育てる技術がないんだったら、もちろん研究はしていくけど、お客さんに喜んでもらえる野菜が作れるなら、マルチは使おうと思った」

マルチを使うことに決め、値段は3倍するが、土に分解される成分解生マルチを選んだ。やってみると土は温まりやすくなり、雑草も生えず、野菜の生育がよくなった。環境のこと、お客さんのこと、どちらにも想いがある山浦さんだからこその選択だった。やり方や農法にはこだわるのではなく、「お客さんや野菜のために今、何をすべきか」ということにとことんこだわり、向き合っている。

自然体で顔の見える関係をこれからも

これまでもたくさんのご縁を大切にしながら自然な流れの中で農家を続けてきた。今後は「ゆがふ農園」に興味を持ってくれる人たちに、観光農園のようなかたちで紹介していきたいという想いもあるそうだ。

「なんでしょうね。人とつながっていった上でなんか面白いことがあったら、お手伝いできたり、何かやりたい人を応援したい。そのためにも心の余裕と時間的余裕を持てるようになりたいな。今はまだまだ勉強中で、結構必死にやってるんで…」と笑いながら話してくれた。

実家が農家でもなく、知らない土地で農業を1から始めるのは想像以上に大変なことだが、数々の失敗を重ねながらも、自分の手の届くことからひとつひとつ着実に取り組んでいた。山浦さんが人と野菜に向き合いながら「ゆがふ農園」を耕す日々はこれからも続く。

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